みなさん、売春っていつから始まったかご存知でしょうか?
ネットの掲示板、SNS、出会い系サイトでも、日夜、個人売春が行われています。
売春は、風紀を乱すということから何度も規制があり、近代になってからは人権や民主化の面で問題にされて法律も改正されました。
今回は、そんな江戸時代から現代までの間、売春の法律の施工がどのようにされたのかをご紹介いたします。
風俗の歴史と規制 1600年代〜1800年代

1617年 江戸幕府が遊廓(ゆうかく)が許可
今から400年前の1617年に、現在の日本橋人形町に売春を公認する遊廓が誕生しました。
遊郭とは、周りを塀や堀などで囲われた区画を意味します。市内からの人の出入を制限することで、治安の維持に合理的でした。
遊郭は届出をした商人によって運営されて、武家が集まる社交場としての役割もありました。
1657年 吉原が誕生
火事によって日本橋の遊廓が焼失したのを機に、現在のソープ街の吉原がある台東区千束4丁目に移転しました。
吉原の客層が一変したのは、このあたりからです。武家は経済的に困窮して倹約に励むようになり、商業に携わる町人が客層の中心になりました。
1772年 飯盛女(めしもりおんな)の規制
幕府は遊郭を許可をした一方で、市中での売春行為は風紀を乱すとして禁止にして、厳しく取締まりました。
しかし宿場街が発展していくのに伴い、宿場での売春が行なわれるようになりました。
犯罪に関係する情報が集中しやすい宿場街は、不審者を奉行所に通報するなど、治安を守るために協力するという名目で、営業を黙認されたからです。
食事の用意をする女性従業員という名目の売春婦は「飯盛り女」と呼ばれました。
1772年には千住宿と板橋宿に150人、品川宿に500人、内藤新宿に250人の飯盛女の規制がおこなわれて、むやみに拡大するのは防ぎました。
1872年 芸娼妓(げいしょうぎ)解放令
世界的な風潮であった人身売買の禁止に対応するため、1872年に明治政府が芸娼妓解放令を発布しました。
「芸娼妓」とは売春をしていた芸者を指します。借金をして雇用されていた5000人の芸娼妓は、遊郭から解放されました。
しかし売春は禁止した訳ではありません。解放された後は個人に任せるといった状態で、行き場のない芸娼妓は、生活のために個人で売春行為をして問題化されたのです。
1875年になると遊郭を貸座敷と業態を変えて届け出をさせて、自由意思で雇用主と契約をして芸娼妓に戻ることが認められました。
結果としては法令としてはさほど機能せず、借金から解放された芸娼妓がおかれた実態は江戸時代とさほど変わらなかったとのことです。
風俗の歴史と規制 1900年代〜現在

1900年 娼妓(しょうぎ)取締規則の発布
貸座敷での宴席で、歌や舞踊をしていた娼妓は、別室で売春もしていました。
明治時代になると売春婦の人権運動が盛んになり、政府は1900年に娼妓取締規則を制定しました。
売春の取締りは各府県に任されていたため、全国的な統制をはかるためという目的もあります。
そしてそれまでは15歳からだった娼妓の年齢を18歳以上として、住居や外出に制限を加え、
所轄警察署にある娼妓名簿への登録が義務付けられたのです。
規則により、結果的には売春を適法とする公娼制度となりました。1906年の調査では、全国に娼妓は約6万8000人存在していたとのことです。
1916 対面営業の禁止
貸座敷となった吉原では、店先で格子越しに娼妓が座り、客待ちをするという営業をしてました。
警視庁はこの方式を非人道的として禁止して、以降は写真での案内となりました。
1946年 公娼(こうしょう)制度の廃止
第二次大戦が終了したあと、日本を占領したGHQ(連合国総司令部)は、女性を借金で縛り付けて売春をさせる公娼制度を廃止を求めてきました。
民主化の改革の一環としてです。
とりあえずの措置として、吉原や新宿2丁目の貸座敷は特殊飲食店として風俗営業が許可されることとなりました。
娼婦は飲食店で働く女性従業員となって、本人の自由意志であることを前提に、売春は黙認されました。
取り締まりから除外された特殊飲食店街は、警察が地図に赤線で囲んで表示したことから赤線と呼ばれる地域となったのです。
店舗はカフェーらしくするため、1階にはダンスホールやカウンターなどが造られました。
女性従業員は店頭に並び、道行くお客に声をかけて店に誘い、2階に間借りをした部屋で売春をしたようです。
風俗営業が許可されなかった地域の貸座敷は、飲食店という名目で営業を続けました。
飲食店として1階で酒や料理を提供して、雇われた女性従業員が2階で売春をしたのです。
この売春が非合法の地域は、赤線と比べられて青線と呼ばれました。
新宿区歌舞伎町や新宿二丁目、渋谷区道玄坂、品川区北品川一丁目、葛飾区亀有四丁目などが、かつて青線が存在した場所となってます。
1953年 性的サービスがあるトルコ風呂が登場
1951年に登場したスチームサウナ施設が、トルコ風呂として全国に広がりました。
1953年になると、女性従業員が手を使って性的サービスをするトルコ風呂が都内で20店に拡大しました。
1958年 売春防止法の施行
売春防止法の施行によって、赤線内の飲食店は一斉に廃業して、料亭などの飲食店に転向する業者、旅館やラブホテルになる業者などさまざまとなりました。
吉原では性的サービスをするトルコ風呂が出現し、同年には都内で33店を超えました。
1966年 風営法改正
トルコ風呂は1966年の法改正により、「風俗営業法」の適用を受けるようになり、個室付き特殊浴場として許可されました。
性的サービスをするトルコ風呂は、東京都で208店となりました。
1984年 風俗営業取締法の大幅改正
「風俗営業取締法」が大幅に改正され、「風俗営業等の規制及び業務の適正化等に関する法律」が施行されました。
新法の施行により営業地域も大幅に制限され、個室付き浴場は営業ができなくなりました。
しかし東京都の条例では、実情などを考慮して、吉原を特例地域として営業を継続出来ることとなりました。
またこの年は、トルコ人留学生の抗議運動がきっかけになってトルコ風呂は「ソープランド」と改称されました。
現在の吉原
現在は日本一のソープランド街として知られ、約150軒が営業をしてます。
全国の1400件のソープランドのおよそ1割を占め、70軒弱の岐阜金津園、50軒弱の川崎堀之内といった他のソープ街に、大きく差をつけています。
大阪府は条例によりソープランドを全面的に禁止したり、東京都でも条例により広告が制限されたりなど、規制強化の流れは今後も続く傾向となってます。
いかがだったでしょうか。売春を取り巻く風俗の歴史について、少しでも勉強になりましたら幸いです。